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毀れゆくものの形

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   第 五 章

 陸軍の秘密部会はもともと生物学的な戦争手段を開発するために組織されたものだが、昭和十二年にロボトミーの成功が伝えられると、外科的手法による精神病理学的人格改造という問題に関心を向けるようになった。秘密部会は大脳における何らかの外科的刺激が大きな人格変化をもたらすことに着目し、すでに発表されていた有木博士の海馬体仮説がこの分野で最も優れているのを知った。そこで、博士の唱えていた第五外科実現のために便宜を図り、多大の援助を与えたのだが、研究の進捗が見られぬまま太平洋戦争に突入することになった。秘密部会はここで方針を旧に復し、活動の重点を毒ガスや細菌による兵器開発に置かざるをえなくなったが、有木教授への援助はなおも継続された。
 人格改造の研究が間に合わなかったのには理由があった。戦前の陸軍秘密部会への研究報告では、手術によって満足のいく結果が得られた例はわずか五例で、これはそれまでの全手術例の二パーセントにも満たない数字だった。つまり、残りの九十八パーセントというのは失敗例であり、それは死と同義なわけで、その異常ともいえる危険率が研究を大幅に遅らせたのである。
 研究材料として提供された三百余人の被験者の多くは、精神障害者、殺人犯、公安関係の囚人、朝鮮人労働者であった。そして、成功例五例はすべて殺人犯の中から出ていた。しかし、その五例の被験者はすでに死刑判決を受けていたため、成功が確認されると即刻送り返され、間をおかずに刑の執行があったらしい。また、他の被験者は、病死、自殺、逃亡を図ったかどによる射殺、行方不明など、さまざまの名目で闇に葬られた。もっとも、この三百余例は戦前のもので、戦時中の記録は存在していない。それには有木教授自身が処分したことも関与しているが、軍部の方でも調達する被験者が捕虜などを多く含むようになったため、資料を残すのをためらったせいでもあった。こうして戦争も末期になると、実験材料の提供は数こそ増えていったが、研究の成果に対する期待は日毎に薄れていくのだった。
 ところが、有木教授は実験に失敗していたわけではなかった。秘密部会から命じられた「人格改造の外科的研究」という面からみれば、たしかに研究の進展ははかばかしくなかったが、教授は実験の目的をそこにおいていなかったのだ。教授は、海馬体のさまざまのサンプルを分析し、それに外科的処置を施して人間情動のパターンの変化をもたらし、大脳辺縁系の機制と人間の本来性とがいかなる相関関係を持っているかを明らかにするという研究テーマから一歩も足を踏み外そうとはしなかった。実際には、術後身体的に恢復したものは報告例の十倍強であり、ただし、サンプルとしての性格強調のため全例とも畸型的精神疾病を生じ、観察中に自殺する者が出たり、あるいは薬物による安楽死などの処置が講じられた。それでも、教授の研究は大きく前進したのだった。
 有木教授は戦前戦中を通じて一千例のサンプルから、海馬体の萎縮あるいは肥大によって、特に情動において著しい反応の差違があることを確認した。それはまた、さまざまの度合による切除手術でも同様に確かめられた。基本情動とは、J・B・ワトソンによって、怒り、恐れ、愛の三つがあげられており、その他にも、喜び、驚き、反感、憎しみ、また、受容、嫌悪、悲しみ、期待などをあげる学者もいるが、有木教授の要素分析の項目には、それらに殺意と活性が加えられていた。
 秘密部会に提出した報告では、こうした実験経過に触れずに、海馬体摘出後に行われた前頭前野と間脳の線維連絡を切断するという簡単な手術例だけを記載し、成功例として五人の殺人犯を時期を分けて退院させたにすぎなかった。

「君はなぜ、実験科学者の暗い情熱の炎を運んできたのだね……」
 老人は徐ろに、そう訊ねた。疲れきったように見える肩の上には、蛍光灯の青白い光が夜の時間を留めていた。いつのまにか俯き加減になっていた矢継院長の顔が上げられたとき、それまでの傲岸さは影を潜め、居ずまいを正すような素振りさえ見られた。
「ご承知のように、私は中国大陸で終戦を迎えました。――そしてそこで、毎日のように数十、いや数百もの死にゆきあっておりました。――それは何も特別のことではなく、あまりにありきたりの大量の死でした。医療施設も医療器具も医薬品も、満足というはおろか何もないに等しい野戦病営で、塹壕の中で、ついには路傍で、あまりにも大量の死を見つづけていたのです。――私は死に麻痺しておりました。そして、この大規模な狂気が真実狂気であるのか疑いつづけたのでした」
 日本軍は中国大陸で、その戦闘能力をいかんなく発揮していた。しかし、昭和十八年に、抗日運動のあまりの激しさに重慶攻略作戦を放棄すると、以降、後退戦を余儀なくされた。八路軍のゲリラ戦術に手を焼いた彼らは、各地で三光作戦なるものを展開していた。それは残虐無比な戦闘が繰り広げられていたのであった。兵隊たちはまるで錯乱でもしているように、その口許に怪しげな笑いを泛べ、咆哮をあげて、抵抗無抵抗にかかわることなく、厖大な数の中国人を殺戮し、蹂躪し、暴虐の限りを尽くした。軍規はいっそう荒廃し、戦闘も場当たり的でなし崩しのものに堕していき、弾薬のつづく限り、日本刀が欠け、折れ尽くすまで、ただ目前にあるものを殺し尽くせばいいというありさまとなった。けれどもそれは、立場が逆転したときのゲリラにしても、復讐に駈られた民間人にしても同じことだった。彼らは敗走をつづける日本軍を見るなり大包囲網を布き、盲撃ちに、雨霰のごとく砲火を浴びせ、銃弾を降らし、潰走した脆弱な兵卒を鋤・鍬の類まで振り上げては、どこまでも執拗に追いつめていった。
 矢継青年は戦闘の只中にいた。敗走をつづける烏合の群の中にいた。そして、すべてを見ていたのだ。指をもぎ、腕を断ち、目を抉り、鼻を削ぎ、頭を叩き割る残忍な殺し合いを、つぶさに……。その、狂気というにはあまりに正常で正当な殺戮を……。そして、至る所に血溜りができ、道には血が涸いてこびりつき、壊疽の発する強烈な腐敗臭と、晒された内臓に群をなして喰らいつく蝿の羽音、烏の喚声……。矢継青年は、これが本当に異常なことなのか、時代や環境が異常であるから人間は異常者に変貌するのだろうか、と一度は考えてみた。しかし、そうした楽観主義がどうも怪しいもののように思われた。彼はあまりに圧倒的な、日常的な、累々たる死の姿から、そうではないと断定したのだった。
「私の日々なしていたのは、死にかかった朋友の腕や脚や胴体や目や鼻や頭蓋骨を継ぎ合わせ、貼り合わせ、あるいは断ち切り、そうやって確実に死に至らしめることでした。麻酔も消毒薬もあるはずはなく、そしてメスは錆び、鉤針は折れ、縫合糸さえ兵隊の着衣をほどいて使っていました。鋸を振るい、鉈を打ち下ろし、私のやっていたことは屠殺場の作業そのものでした。――ところが私は、そうすることを当然のように考え、少しも異常を感じてはいなかったのです。そればかりか、いつしか、そうすることによって生きる歓びすら見出していたのです。それは陶酔のようなものだったのかもしれません。自分の触れているのは人間の道具にすぎない、この道具を死に至らしめることによって自分は情熱を享けている……。この思いは、先生が人体実験で手に入れたに違いない享楽と均質のものなのではないでしょうか。私はそのとき、開頭手術を行っている先生が、手術台上の脳髄にメスを振るい、吸入器で豆腐のように軟かい脳味噌を取り出している姿を思い起こしました。――そして、その頭脳が、それも生きている頭脳が、他の器官と同じく、単に人間の道具にすぎないのかを、どうしても確かめずにはいられないという峻烈な昂奮に囚われたのです」

 戦後暫くして第五外科に戻ることができた矢継青年は、再び有木教授の助手を務めるようになった。だが、青年は、すでに正気を恢復しつつある戦後の、その向こうに約束されている平々凡々と過ぎゆく静謐な日常に、心底飽々しているに違いない自分の姿を思い描いていた。青年は、まるで逼塞でもしているような教授に、頻りと「海馬体仮説」の研究続行を促しつづけた。青年は、いきなり老け込んでしまった教授の内奥で、実験への抑えきれぬ執着と暗い情熱が燠火のように熱を帯びているのを嗅ぎつけていたのだった。
 矢継助手は教授の研究資料に目を通すうちに、戦時中に行われた人体実験の全貌をほぼ掴んでいた。その事実が明るみに出されれば、教授はGHQの追及を免れえなかっただろうが、教授の決断を促したのはそのことのためばかりではなかった。海馬体が情動の原因であることを立証し、「海馬体仮説」の正しさを証明するには、あと数回の実験が必要だったからだ。そしてその実験は、戦争目的でもなく、それゆえに国家からの保護も命令も受けることのない、純粋に学問的な行為であるという自己弁護も試みたに違いない。けれども、本当は実験に対する執念でしかなかった。有木教授はその誘惑に屈し、実験を秘密裡に再開した。
 戦後の混乱をよそに、有木教授と矢継助手の二人だけの開頭手術が数年の歳月をかけて行われた。被験者には、大学病院に収容中の重度の精神疾病患者、頭部損傷患者からピックアップされた数人が充てられた。そして充分な検討の結果、意外な事実が判明した。それは、脳内から視床下部だけを摘出した場合、術後の情動反応では完全に無反応となるにもかかわらず、海馬体のみの切除では、強い情動反応は失われるが、微妙な反応曲線は完全には消えないということだった。このことは、教授の「海馬体仮説」が成立しないことを示していた。また、次に明らかになったのは、海馬体の海馬支脚だけの切除によっても反応曲線に変化が現われ、その切除の箇所と量に応じて術後反応の度合が異なってくるということだった。つまり、情動の原因が視床下部にあり、海馬体は制御的な役目を果たすという結論を導き出す。
 しかし、教授は、この結果に悄然としたわけではなかった。依然として大脳辺縁系が情動を生み出す部位であることに変わりはなく、海馬体が情動と不即不離の、きわめて枢要な組織であることを実験的に確認できただけでも満足だった。
 この数度の手術と反応分析は昭和二十五年頃まで続けられたが、海外でP・D・マクリーンによって「大脳辺縁系は内臓活動を支配する内臓脳であり、これは個体維持や種族保存に大きな役割を果たす」という学説が発表されるに及び、有木教授は、海馬体と視床下部が表裏一体の関係をなすように、情動に限らず、大脳辺縁系全体の諸活動に海馬体が大きく関与するのではないかと考え、海馬体の重要性を改めて痛感した。
 また、被験者の一千例に及ぶ資料を検討し直した結果、新たな事実も発見された。それは、殺人犯の多くに海馬体の異常肥大がみられたということである。その肥大は支脚方向に顕著であって、海馬傍回を圧迫し、脳全体を後頭葉方向に押し出しているのだった。

「この部分です」
 矢継院長は再び廻転椅子をめぐらし机上のスクリーンに向き直ると、褪色したレントゲンフィルムの一部分を指し示した。
「あのとき先生は、骨格異常説や外傷性異常説の介在を嫌い、頭蓋の変形については触れようとはなさらなかったのでしたね。先生は、海馬体の肥大の原因が頭蓋の変形によって導き出されることはありえない、と言われた。脳は水中に漂う豆腐のようなものである、だから外部からの圧力に関しては何処でも均等の影響を受け、それゆえコントルクーのような現象が生ずるのであって、ましてや中枢部に骨格からの影響が現われるはずはない、そう説明された。しかし、情動反応の過度なサンプルほど明瞭に頭蓋の骨格異常が現われているということは看過できなかったわけです。――我々は、海馬体が、情動に限らず内臓の機制においても主要な部位であることはつきとめました。けれども、頭蓋の変形という現象的事実につきあたりました。先生も、そのことに目をつぶるわけにはいかなかった」
「そのとおりだ。だからこそ、君の提案したあの忌わしい実験に同意したのだ」
 老人の声は、わななくようなふるえを帯びていた。何か、よほど辛いことを思い出しているのか、老いた顔にありありと苦渋の色が泛んでいた。
 ――深い皺が刻まれている有木老人の顔を、闇の中を飛び交い、漆黒そのものに溶ける獣のように、高窓の外に貼りついて覗き見る双眸こそ、矢継早彦のものであった。けれども、夜の研究室から滔々と流れ出る矢継院長の言葉が暗い声音を引き摺っているのに少年が気づいていたかどうかは窺いようもなかった。早彦の位置からはみえない院長の顔が、老人とは対蹠的に、何ものかの火照りに煽られて赤らんでいた。早彦の父親もまた、思い出すのもはばかられるおぞましさに囚えられていたに違いないのだ。そして、それゆえに、彼は熱狂者の姿をとっていたのかもしれない。
「私は第五外科で秘密に保管されていた頭蓋骨や記録、資料などをここに運び込み、それから十年余、詳細に研究いたしました。そして、頭蓋後部の突起、すなわちこの角がラムダ状縫合の上部にしか見られないことを確認したのです。――先ほどは骨格異常と言いましたが、この頭頂骨と後頭骨を分かつ部分の突起は、力学的にみてまったく自然であり、何ら異常ではないのです。つまり、骨の外部からは異形のもののように見えますが、これを裏返して骨の内部、脳の側から見るとき、この変形した頭蓋は実にぴったりとした容れ物だということです。私が推理しまするに、海馬体の肥大によって大脳の頭頂後頭溝が下部へずり落ち、その結果内側に引っぱり込まれることで溝の上部が突出し、その運動の影響によって頭頂骨の縫合部が盛り上がるのではないか……。それに気づいたとき、我々の発想が結果の方ばかりに向き、発生の過程にまで及んでいなかったことに思い当たったわけです。異常は、この発生の時期に遡らねばならなかったのです。――私が注目したのは、脳細胞の増殖の第二のピークといわれるシナプス形成期でした」

 神経系の発育速度は胎児期と出生後しばらくの間がピークとされ、出生時には重量にして成人の四分の一、一歳時では二分の一に達する。第一のピークである妊娠十〜十八週では神経芽細胞の分裂・増殖が繰り返され、妊娠中期から生後十八カ月にかけての第二のピークでは、神経膠つまりグリヤ細胞と、髄鞘の主成分であり栄養素ともいえるミエリンと呼ばれる半液状の類脂肪質が産み出されるとともに、さらにシナプスが形成され、出生前には毎分二十五万個以上の神経細胞がつくられるといわれている。これらの時期は神経系の基礎が固められる最も重要な時期であり、出生後には髄鞘化(ミエリネイション) がいよいよ活溌に展開されていくのである。
 矢継院長は海馬体肥大をこの二番目の時期に想定し、その影響が頭蓋にまで及ぶ過程もここに求めたのだった。――この時期に何らかの理由で海馬体の肥大化が起こり、これによって海馬体を取り囲む海馬傍回が弱い方向、つまり水平方向に押し出され、視床脳といわれる第三脳室などを圧迫しながら頭頂後頭溝の上端をを持ち上げ、そのためにラムダ状縫合に力学的変化をもたらし、それに対応して頭頂骨の特定部分に形成的に影響を与える、と考えたわけだ。矢継院長は、こうして生じた頭蓋の突起が、さらに頭蓋全体の比率にも変化を与え、そのことによって側頭平面の左右の大きさに重大な影響を及ぼしていることも見出していた。つまり、突起が生ずることによって頭蓋骨の形が変わり、その頭蓋骨の形が逆に側頭葉に影響を与え、脳自体の形を変えてしまうということである。

「脳はただの豆腐ではなかった。たしかに、中枢部分については頭蓋からの影響を直接考慮に入れる必要はないかもしれない。しかし、脳の外縁部は頭蓋骨から大きな影響を受けているわけです。整理して考えてみると、全過程の大因ともいうべき海馬体が頭脳全体に及ぼす影響力は、予想以上のものであるということになります。――ところで私は、海馬体の脳へ及ぼす力学的・構造的な作用、また頭蓋骨への作用、さらに頭蓋骨から側頭葉への、いや脳全体にわたる反作用を一連の解剖例によって確認してきました。もちろん、大学を逐われ、それでなくても人体実験のはばかられる時代に、充分な実験材料が入手できるなど思いもよりません。私の手がけたのは、掻爬手術による摘出児、死産児、未熟児出産による死亡児の解剖でした。これらの解剖例は相当の数に上りましたが、かえって海馬体の成長過程と頭脳の成長の関係をつぶさに観察することができました。そして、それらの分析から驚くべき事実が判明したのです」
 闇というよりはあまりに濃密な暗さを湛えた夏の深夜、滞ったままこそとも動かない蒸れた空気……、すでに寝静まった世界のどことも異なり、矢継医院の禁断の一室からは、煌々とした蛍光灯の明かりが、そのような暗部に向かって吐き出されていた。研究室の一角では、その光の露骨な輝きを受けて、標本棚のニスを塗られた棚板の縁が脂じみたぬめりを揺らしていた。その棚を(うず) めるように、煤けた頭蓋骨の完全標本が十数箇と、おそらくそこから摘出されたに違いない灰色の脳葉が、容器の中で変色したフォルムアルデヒドの液に浸されて、それぞれの数だけ置かれていた。別の棚には、同じようなガラス容器が、ただし透明な澄んだ液に漬けられた、さまざまの形、さまざまの大きさの胎児や嬰児の標本が数十箇並んでいた。密封された数十体の標本はそれぞれの成長の度合に従って整理されているが、白蝋のような気味悪い肌に絡みつく毛髪が生命を残してなお伸び続けてでもいるのか、保存液の中に棲みつく藻類のように、胎生期のものに近づくにつれて隠微な色合いを濃くしていた。そして、それらの標本のすべてが頭部を縦に切り割かれ、断面を埋める柔らかな内容物が一目瞭然に見てとれた。
 矢継院長は壁面を埋めている標本に妖しい一瞥を与えると、いまやただみすぼらしいだけの老人を振り返り、熱に浮かされたように先をつづけた。
「――海馬体肥大は後天性のものではないということです。なぜなら、妊娠中期以降の解剖例のすべてに共通して、海馬体に充当する部分に、成長の抑制活動、つまり組織破壊をもたらす細胞活動の痕跡がみられたからです。これは組織自体に備わった機制ととることもできますが、ただそれが一様に同じ時期を境にして現われているわけです。このことは、まさしく遺伝的な性格をもつものに他ならないということを証拠づけています」
 何ものからも無関心で、時を隔てた一切が無意味であるとでもいいたげに半ば閉じられていた老人の眼が、ここで嶮しく炯った。
「君は初めからそう考えていたのだな……。だから、あの実験を強行した、あの最後の実験を……。そして、わしから――」
 その嗄れた声は、怒りとも諦めともつかぬ、あるいは自責の思いともとれる微妙な抑揚をしのばせて、二人を取り巻く標本と化した死そのものの暗い翳りの部分に沁みとおっていった。だが、矢継院長のひときわ昂揚した声が、老人のその言葉からあらゆる余韻を奪った。
「私は最初、脳内に腫瘍のようなものが生じ、そのために情動異常、いや情動が過激に昂進すると考えていたのです。しかし、海馬体にも、その周辺組織にも、そのようなものの存在はみられなかった。その兆すら認められなかった。そうなると、あとは海馬体の組織上の問題、それも遺伝的な要因しか考えられないわけです。これは、私による『海馬体仮説』なのです。――おっしゃるとおり、これまでの研究は、このことを確認し証明するためのもので、私はあの当時から、遺伝的な要因が大きな比重をもつということを確信していました。だからこそ、その頭蓋骨による実験を強行したのです」
 テーブルの上に置かれている一箇の頭蓋骨に、有木老人と矢継院長の目が注がれていた。黝んだ頭蓋骨の後頭部に生えた、一目でそれと分かる突起が、二人の医学者の硬ばった視線に晒されていた。
 その頭蓋骨はある殺人犯のものだった。戦後の混乱期に、北海道各地を舞台にして、被害者数十人に及ぶ無差別殺人が行われた。犯人は捕えられたが、その数カ月後に奇妙な死を遂げ、何のための大量殺人であったのかは永久に謎になってしまった。殺人狂と看做されたその男は、逮捕後、精神鑑定のため北大の精神科に送致されていたのだが、いつのまにか第五外科に廻され、そこで死が伝えられた。大学当局はロボトミー手術が失敗したとだけ発表し、詳細については固く口を閉ざしていた。当時、まだGHQの指揮下にあった警察当局は、荒廃していた大学の復興に尽力していたGHQの意向を受けて、犯人が極度の精神異常者である旨の大学側の報告に信を置き、それ以上立ち入ろうとはしなかった。
 ところが、脳神経医学会に属する学者が口火を切った形で、ロボトミー手術と第五外科に対する世間の批難が昂まると、大学当局はこれに抗しきれず、第五外科の廃止を決定した。翌年、この手術を執刀した有木教授と矢継助手は、逐われるようにして大学を去った。

 有木老人は、ふと口を開きかけたが、思い直して再び口を噤んだ。そして、その夜の会話は打ち切られた。なぜなら、次の言葉をつづけるには、二人ともあまりに深い痛手を受けていたからであり、おそらくそれが二人の憎悪の一致点だったからかもしれない。

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